風景写真との出会い

風景写真との出会い

■Written by 中村邦夫 昭和15年、富山県上平村生まれ。深い森と山、滝に魅せられたアマチュアカメラマン

 

風景写真を始めて6年が過ぎた。休日や休暇をとって撮りためた写真が相当数になったので、娘や息子の勧めもあってホ-ムペ-ジを開設することにした。

風景写真を始める出会いはごく自然なもので、出張先の支店で壁に掛けられた一枚の風景写真がそもそもの発端である。

その写真とは裏剱の仙人池から見た八つ峰の朝焼けである。険しい峰で遭難の歴史を繰り返してきた剱岳(富山県2998m)は登山者の憧れの山であり、紅葉の季節は神秘的な池とナナカマドの赤、そしてバックには剣のように険しい山がマッチして絶景となる。

私は特に絵を見るセンスがあると思わないが、単純にこれはきれいだなと感じたのであった。早速、撮影者を聞くと、なんと会社の先輩ではないか。

そろそろ60の声も聞かれる歳にもなったし、ここらで生涯楽しめるものを探していた私が考えたことは、相手を必要としないこと、アウトドアであること、記録に残ることの三条件であった。

その点で写真はすべてを満たしてくれ、上達すればコンテストや個展の場も開かれるので、楽しみは倍加すると考えたのであった。

私は中学校を卒業するまで、当時は秘境といわれた山奥の集落で暮らしていたので、自然に対する思いは歳をとるに従って懐かしいものとなった。

長かった冬が去り、春の日差しが強くなるとゼンマイや山うどの山菜を取りに出かけ、谷川で岩魚を釣り、夏は庄川の激流を泳ぎ、秋は栗やクルミを拾い、今では世界遺産となった合掌造りの屋根を葺くカヤを刈りに200mの山を登った。冬の到来は厳しい。

2mを越す豪雪の中を山スキーで罠を仕掛け、野うさぎや山鳥を捕り、僅かなお金で売り家計の足しにした。

現在の生活から見れば原始時代のような生活であったが、家族の絆は強く、大人から子供まで活き活きとしていたように思う。およそ登校拒否や家庭内暴力など無縁の世界であった。

それは生きるためには一家の結束が必要であり、より良き生活への挑戦に満ちた時代でもあった。私はこの大自然の中で過ごすうちに、人間として持つべきものに信頼と協力が不可欠であり、その心は自然を愛し、いたわりと寛容の精神を養うべきものであることを学んだ。

実はその心を風景写真で表現したかったのである。写真だけで自分の心を表現するのは非常に難しいが、その表現に私は短歌を利用した。俳句や短歌は日本の伝統文化であり、短い文字で心情を吐露するのに適している。決してうまいとは思わないが、日頃考えていること、思うことを感ずるがままに写真一枚一枚に添えてみた。

これからの世の中はどのように変革するであろうか。私はこの十年が勝負とみている。英知を結集して人類愛に目覚めるか、それとも我欲を出して自ら破滅するか。いま、世界中に破滅のカルマが漂い始めている。この写真が読者の心に少しでも安らぎを与えられたら、これに過ぎる喜びはない。

最後に短歌を一つ。

歳ゆけど心は常に若かりし写真の仲間語りたる日々