記憶の中の風景を探す父
■Written by 中村茂樹 1974年富山市生まれ。フリーランスライター。
幼い頃は大きな存在であった父親が、本当はただのおじさんだとわかる時期が必ずやってくるもので、僕の場合も、特に記憶はしていないが、そういう時期を中学生くらいに自然と迎えて現在にいたる。
それが、二十六歳になった今年、再び父親の存在を大きく感じ始めるようになった。きっかけは、父がホームページを作ったこと、趣味で撮った写真を載せるという。
「父さんがカメラを始めて夢中になっている」と母から聞いたのは、五年ほど前のこと。僕は故郷の富山を離れ、京都のアパートで一人暮らしをしていたので、その様子を伺い知ることはまるでなかった。
それが翌年の正月、実家に帰ると、僕の部屋がすっかり父の作業スペースになっており、三脚やら望遠レンズやら思わず値段を聞きたくなるようなどっしりした機材が並んでいた。
父は富山県の山奥で生まれ育ち、高校卒業からずっとサラリーマンを貫いてきた会社人だ。
若い頃はジャズが好きでトランペットをかじったとは聞いていたが、芸術的センスがあるように見えたことはない。だから「たいした写真でもないだろう」なんて思ってはいたのだが、家のあちこちに飾られている父の風景写真は、プロが撮ったものといってもいいくらい本格的な仕上がりだった。
定年を間近に控えた歳だというのに、どうやって複雑なカメラの使い方を覚え、構図の取り方などさまざまな撮影の技をマスターしていったのか、僕には不思議だった。
その写真におさめられたひとつひとつの風景を見ていると、父の少年時代の話を聞いているような気分にさせられた。そして僕はそのとき、我が父の子どもの頃の話をほとんど聞いたことがないことに気が付いた。
父・中村邦夫は、太平洋戦争が始まる直前の昭和十五年三月、富山県の秘境・五箇山の小さな集落で生まれた。
現在では道路が整備されて冬でも不自由なく往来できるが、当時は牛馬が通る程度の道しかなく、冬には完全に雪に埋もれる陸の孤島だった。雪の重みでつぶされぬように作られた合掌造りという急勾配の屋根の家々が有名で、最近この地区は世界遺産にも指定された。ちなみに、父の生家も当時は合掌造りだったそうだ。
そんな山奥で生まれ育った父は、高校入学と同時に家を離れ、高岡市(富山県では富山市に次ぐ都市)で寮生活、高校卒業後すぐに電力会社に就職した。二十代後半で結婚して長女、長男と次男の僕が誕生。四十歳で富山市の住宅地に家を建て、福井や石川の電力施設への単身赴任を経験し、昨年、定年と還暦を同時に迎えた。
僕ら家族は、どちらかといえばおとなしいタイプだったから、おのおの自分の部屋で好きに過ごす時間が多かったが、盆と正月には必ずみんなで五箇山の実家に行った。自動車で三時間あまり、いくつものトンネルを抜け、山にへばりついているような集落を目指した。
その実家の周辺は本当に山ばかりで、猟師の散弾銃の音が聞こえたり、熊が捕まったと聞いて見に行ったりもした。幾重にも連なった山々が天気によってはとてもきれいに見えた。
僕は父にせがんで山釣りに連れていってもらったことがある。いまでは貴重な記憶だ。
「茂樹、最後まで歩けるか? ちゃんと付いてこれるか?」
出発してからも何度となくハッパをかけられた。
僕はまだ小学五年生で、小さな歩幅ながらも父の背中を追って山道を歩いた。
このとき、たいして特に不思議には思っていなかったが、釣りにでかけるというのに、父は釣り竿を持っておらず、昆虫採集に使うような網と釣った魚を入れるためのカゴだけを担いで、ひょいひょいと歩いていく。
「この山でな、よくうさぎを取ったり、ヘビとったりしたんだ。青大将はまずかったが、マムシはうまかった」
何度か独り言のように昔話をしてくれた。
やがて、だんだんと道がなくなってくる。藪をかき分け、草をつかみながら断崖を這いずり、一歩足を滑らせたら間違いなく死ぬだろうという斜面を次々と越えていった。僕は山歩きを楽しむというより、「はぐれたらヤバい」という思いだけで必死に父の背中を追っていた。
ただ、こんな道なき道を歩きながら、けっして迷っている気分にはならなかった。いつまでたっても余裕のステップで進む父が、明らかにひとつのポイントに向かっていることが子どもながらにわかっていた。
さらに、またずいぶんと歩いた頃にようやくだった。
「うわっ、うわっ」
僕は頭から水しぶきを浴び、当時に目を見開いて驚いた。藪をかき分けたその先につるつる光った巨岩があり、その上から一本の大きな滝がドドドッととめどもなく水を吐き出し、シャワーのように水しぶきがあがっている。その滝の下には、澄んだ水の鏡のような池があった。
「ほら、ここで持ってるんだぞ」
僕は父から網を受け取り、その池から流れ出る細い川に網を入れていた。父は池の中に潜って中をかき回している。すると、驚いた魚が引きつけられるように僕の網に入っていった。数匹があっという間に釣れている。
観光客などけっして訪れない手つかずの滝だ。まるで父の秘密の隠れ場に連れてきてもらったような気さえした。
父と僕はいくつか釣りポイントを回り、また急斜面を登ったり降りたりして帰路についた。最後の絶壁を登り終えて辺りを見回したとき、いままで自分が歩いてきた山が、いつも遠くから眺めていたあのきれいな山だとわかった。
父は五十代の半ばを過ぎた頃から、休日のたびに朝早く出かけ、あちこちの山に入っては林や森や滝の写真を撮っていた。いつも風景写真ばかりで、人物や建物を撮ってくることはまったくない。
父にとってカメラは、自分の子が自立したのを見計らってからやっと始められた趣味であるようだった。
夜になっても、自分の撮った写真ばかり眺めているらしい。
父がなぜここまで写真に一生懸命になるのか、と我が家族はみな考えているのだが、一緒にあの山釣りを体験した僕は、なんとなくわかる。
きっと、まだハナを垂らしていた少年の頃の父は、毎日のようにあの山を駆け回っていたのだろう。オモチャも漫画もテレビもなかった時代だから唯一の遊び場でもあったし、あの山の中こそ、どこまで進んでも行き止まりのない無限に広がる世界だったのだろう。そして、きっと、そのとき、信じられないほど美しい景色を見たに違いない。
記憶の中にだけある景色をもう一度、自分の目で確かめるまで、父はカメラを担いで山へ入るのだと思うのだ。
1999年の秋、僕は後に結婚することになる女性を連れて帰省し、父母とともに五箇山の実家に出かけた。
墓参りをして柿を収穫して、夕暮れになった。そろそろ帰ろうかという頃、父が何かを思い出したように山の中に入り込んでいった。急斜面を登っていく。
あわてて追いかけると、父は紙のように真っ白いコケを採っていた。
「これは『天使のつばさ』っていうんだ。みそ汁に入れたらうまいぞ」
ビニール袋など持っていないから、父は着ていた上着をその場で脱ぎ、袖をうまく結んで布袋をこしらえた。抱えきれないほどのコケを収穫して帰宅。その晩、僕らはみそ汁を作り、「天使のつばさ」を入れて食べた。山のエキスが染み込んだ香ばしい味のコケだった。
その日も、夜十一時を過ぎたというのに、父は背中を丸めて座り、自分が撮影した山の写真を眺めていた。眠るまでの時間をいつもこうして過ごしているという。はたしてその写真に、いつの日の自分を映し出そうとしているのだろう。